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Tomohiro
​Muramatsu

Tomohiro
​Muramatsu

絵画には現在と未来を貫く力が必要だと思う。自分にとって絵を描くということは、頭の中で拡張し続ける未来を書き出すことに他ならず、世界に接している私自身と社会システムを表現する視点である。自然であれ、生物であれ、物体であれ、美しさを感じる瞬間は、表現することを促す重要な動機となり、人生の座標に注意を向けさせるメカニズムに変わる。「描く」という行為の先にある絵には、どうしても自分の率直な態度が現れる。

能の稽古を始めて数年が経つ。10代の頃初めて舞台を観て、この世のものではない淡く漂う空気に魅了された。以後観ることに夢中になり、30歳になった節目に仕舞いと謡の稽古を始めた。能の演目を5つに分類する言葉に「神男女狂鬼」がある。シテ(主役)に当たるものはこの世のものではないものや、こちら側の世界からはみ出してしまった感情、また、人間以外のものも多く登場する。こうしたものたちが人間の世界に現れ、我々と交渉を持つのである。

自分の中にいる鬼に気がついたのは13歳の頃だった。

小学2年生転校先の学校での初日、そこにいる人たち全てが嫌になって自分の意思で学校に行くことをやめた。中学に上がる頃から学校に行くようになったが、同時に働き始めた自分にとって学校という場所にいる人たちに複雑な感情を抱いていて、それは小学校2年生のあの時から始まったものだと気がついた。社会の中で自分が置かれている不条理な状況を理解せざるを得ない、学校という場所がたまらなく嫌だった。火が燃えるような感情、そこに確かに鬼がいた。まだ鬼に当たる曲の稽古はしていない。いつかあの頃の気持ちが成仏することを願っている。

「柔らかく」ありたいと思う。子供の頃は、大人=強くならなくてはいけない、と強固なイメージを持っていたけれど、大人になって随分時間が経つとそんなことはどうでも良いと思えるようになった。今は、なんてことない日々を慈しみながら、楽しくも苦くも大切な局面を迎え、思い出が増えていく幸せを噛み締めている。

自分に正直にいることを心がけていると自然に新しい事柄と向き合わせられ、自ずと大切な人との出会いも増える。少しづつ変わる日々をバランスを崩しながら、よろよろと進む。転んでは、休憩して、進む。全てを「柔らかい」気持ちで、ただ受け入れることがコツである。自転車に初めて乗れた時のような気持ちを繰り返し、楽しみながら年齢を重ねることは、かけがえないものだと知った。

2024年3、4月に中国の四川省や雲南省、チベット自治州などの田舎を一人で回った。中国文化には、能の稽古や古物、仏教美術への興味を通し、それらのルーツの一つとして以前から惹かれていた。英語も通じず、電波ネットワークの環境も特殊な国なので、ほとんど誰ともコミュニケーションをとることなく見知らぬ土地の大自然の中で過ごした。人と会うことのない山中を3日間歩き続けたり、奥地にある寺院を尋ねることは、自身を内観し、思惟するまたとない機会となった。

この数年、自分の置かれた外的状況と精神的な状態、これまでに培ってきた考え方がチグハグになっていた。バランスが取れないまま、内省することを恐がったり、自分自身に制限をかけていた。それを外すには、日常ではありえない環境の中に身を置き、自分を現実から切り離すことで物事を俯瞰して見ることを必要としていた。自分を主体とせず、発生する出来事の流れに身を任せる水に漂うような旅を。

12年前、23歳頃にも同じ精神状態の時があった。その時はインドを中心にアジアを数ヶ月間回った。イギリスに住んでいたあの頃は日本の社会システムを切り離し、個として外側へ向かい他者と関わることへの勇気のあり方に直面していた。今回は自分の内部へ潜ることへの勇気だった。絵を描くにはいつだって勇気が必要だ。

早朝の起き抜け、朦朧とした意識が身体の輪郭に溶け出して1つの物体として内側を強く感じる。潜在意識が優位に働くそのひと時が生物としての本質だと思う。漠然と何かに畏怖し、過去も未来も関係なく、今この瞬間だけをただ受け入れる。即ちそこには「無」がある。全ての生物は抗えない何かに向かう。

物心ついた時には絵を描いていた。土の上、チラシの裏、雨の日の車の窓、描けるものにはずっと描いていた記憶がある。絵を描くことは自分自身との会話であり、他者との大切なコミュニケーションでもある。私は折に触れて、描くことを通し、内省し、リハビリをし、人生の希望を見出してきた。絵はいつも変わらずにそこに存在し、自分を祝福してくれている。

罪業観を感じるからか、能「阿漕」についてよく考える。思考が無意識の領域に入り込み、シテの阿漕と呼ばれる漁師の亡霊が自分自身に重なり業火の海に焼かれる夢を見た。

旅人(ワキ)の前で、亡霊となった漁師が禁漁の阿漕ヶ浦(伊勢)の海で性懲りもなく生前の罪を繰り返す場面である。特に、白洲正子氏の表現は脳裏に焼き付いて離れない。

「それほどにも阿漕の執念は強かった。殺生禁断と知っていても、生き物を殺す罪は重いと聞かされても、魚を獲る魅力には打ち勝てない、それが漁師の本能であり、執念でもあった。ころ合いを見すまして、網を手にひかえ、波間を目がけてうとうとすると、波はかえって猛火と変じ、阿漕の上におそいかかろうとする。

「ああ、熱い、熱い、助けてくれ」

炎にまかれて、こけつまろびつ苦しむさまは、見ているだけでもすさまじい。丑三つどきをすぎるころには、あたりは一面火の海と化し、身悶えする阿漕を焼きつくそうとする。これぞまことの地獄の業火、阿鼻叫喚の巷かと、旅人は身の毛もよだつ思いであった。人間の執念というのはおそろしい。炎の烈火の中でも、なお阿漕は手なれたあみを離さず、猛火の中へ飛び込んで魚を獲ろうとしていた。だが、網に入った魚は、たちまち悪魚、大蛇となって彼をおそい、肉を噛み、骨を砕く。」( 阿漕ー「能の物語」)

曲が書かれた600年前から時代は流れど、漁師の悲惨な死と、罪業により死後もなお業火に焼かれ苦しむ姿を「非-人間中心主義」に視点を置き換えると、自然に対し懺悔の念が生じる。漁師は、現代でより加速する「人間中心主義」を生きる、紛れもない自分の姿なのだ。自らの気持ちが罪業観念に触れると、まわり一面業火の海が広がっていく。

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